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 この仕事に人生を賭けてます! 伊能忠敬の「人生二山」が好きな言葉。 実り豊かな第二幕目の人生の歩みing型。 黒田真一が人生の旅人として日々の雑感を綴ります。
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私は、母を71歳で亡くした。

当時私はバリバリの管理職。教員の弟も学年主任をしていたのだったか、
いずれにしても「働き盛り」の真っ只中であった。

その頃、母が胃がんになった。
ふたり住まいになっていた両親は、二人で病院へ行き、入院支度も
二人で、というより父が付き添い、母が指示して準備したのだと
思う。

二人は「働き盛り」の息子達に遠慮というよりも、息子達を慮って、
敢えて連絡もせず、入院した。
今思えばそれぐらい、母は元気だったし、父も一家の主らしい振る舞い
が出来ていた、のだろう。

だが、(私と同年齢ほどの)母の主治医は<それが許せなかった>ら
しい。耳が遠い夫だけが付き添い、妻ががん患者。なんとも不憫な
老夫婦と、人非人の子供ら、と映ったのだろう。
『ボクから言いましょうか?』『いいえ、いいんです。どうぞ、そんな
ことはしないで下さい・・・・。』

主治医は、<患者>以上の思いで母を思ってくれた。

しかしその時点では、子供たちとしては知らされていなかったのだから
仕方がない。豆に連絡を取るべき・・・と言われるかも知れぬが、
露ほども親の弱りを考えない時期には、それより自分の眼の前の
課題を解決する日常の方が、どうしても大きいものだ。
父も自分たちで身の回りのことは解決出切る・・・・と考えていたのだ
と思う。そういう父であった。


手術の日、子供たちは病院にいた。
主治医のところにゆくと、切除した母の胃を見せられた。
先の事情からか、コチラを見た医師の視線に一種刺すような光が
あったような気がした。
東北大を出たというその若い医師は、色白のいかにも賢そうな
顔であったが、さらに「医は仁術」のハートさえ備えていた。

手術は成功です、の言葉に、兄弟は心から深謝し深々と頭を下げた。


しかし、程無く母は<みぞおち>あたりに違和感を訴え、再入院と
なった。
がんの転移が見られるという。余命3ヶ月。

「あれほど、全部患部は切除したので問題はない。」と言ってくれたのに。医師は最後まで面倒を見させて欲しい・・・といったが、もう、
到底その気にはなれなかった。
なにせ、時間がない・・・・・・・!

仕事を抱えて、日立まで80キロを毎日通うのはムリ。もう治らない
とすれば、勝手かもしれないが、友部の病院に転院させて、毎日通って
あげるのが最後の親孝行・・・・。

それから友部の病院で、母の受け入れのお願いをし、日立の病院に転院の
お願いをし、転院の日取りを決め、主治医が最後まで面倒を見る・・・の
言葉を振り切るように転院した。


車の後部座席に枕をしつらえ、高速道を走った。
日立の大煙突が見える脇を通った時には、「ほら、大煙突が見えるよ!」
と運転しながら母に見せた。
もう、今日以外絶対に母は見ることもない・・・と確信しつつ。
娘時代を過ごし、勤め、結婚し、子供を産んで、と、ことあるごとに
見ていたはずの見納めの「大煙突」を見せた。日立の象徴だった。


15時の入院を前に、我が家に寄った。
たしかもう、たいして食べられなかったのだと思うが、軽く遅い
昼食を済ませ一服。
「じゃあ、行く?」母を促し、席を立った。
母は治す意欲に満ち、新しい環境への軽い緊張もあってかハイな
気分であった。
庭に梅が咲きだしていた。「おや、梅だ。咲いてる。」母は指差し
元気いっぱいに車に乗った。


新しい病院では、個室を宛がわれ家族水入らず何の遠慮なく話が出来た。
前の病院では4人部屋。生来勝気の母は、そのうちの誰かと気まずく
なり、その意味でも今日からの病院は天国のような環境だったに違いない。
「良かったよォ・・・」母が心の底から言った言葉だった。

小さい病院なのに、末期がん患者の受け入れ。
医師の厚意とは別に、看護婦(当時)の負担が思われたが。

当然に前の病院からの紹介状、画像資料その他持参の入院だったが
病院に入った直後、またレントゲン撮影があったり、それなりの検査
があったりした。
17時ごろだったか、夕食があり、それでその日の日課は全部無事
終わった。今度は私らの夕食支度のため、妻を先に帰宅させた。

病院は閑散として、一安心も二安心もした家族。
何の遠慮もない個室、ラジカセでも持ってくる話をして、「何が聴き
たい?」と聞いたら、美空ひばりという。同じ戦後を同じように歩いて
来た歴史を思った。
(結局その後、悪くなるばかりになった母は、一度も美空ひばりを
 聴く気にならなかったが・・・・)

話は逸れたが、もう夜も20時近くになっていたろうか。
私と父は「また、明日」と病室を出た。長い一日がやっと終わろう
としていた。
ふうっ、やっと安心。軽い気持ちで休憩室に寄った。

そこには先客があった。60代位の婦人とその連れらしい20代の男の
お孫さんらしかった。それと、この病院のかなり年配のX線技師。
ご近所同士ででもあるのか、だいぶしみじみ口調で話し込んでいた。
この技師、帰る間際の雑談らしかった。

やがて話題が変わった。
「今日入ったおばあさん、もう顔も真っ黄色。目の白目も黄色いんだ
もの。もう、ああなったら人間終わりだね!・・・・・・・」

別に聴いていたわけではなかったが、後は誰もいないこの時間の
休憩室。誰のことを言われたかは即座に解った。私はその男の顔を
まじまじと見た。
相手は全然、こちらがその息子と夫だなんて夢ひとつも考えていない
様子。私はあきれ返ってスックと立ち、父に「帰るよ・・・」と
促した。父の幸せは、耳が遠くキョトンとしていたこと。


外は真っ暗で、いつの間にか雨が降っていた。
黙って父を乗せ家路についた。水滴で前が見にくい。ワイパーが
動くリズムで、考える。<ああなったら人間終わりだね・・・>
<ああなったら人間終わりだね・・・><ああなったら・・・・>

込み上げて来る悔しさ、込み上げて来る怒り・・・・。
父子は車中黙ったまま走る・・・。
父はまだキョトンと、息子のダンマリの意味など理解していない。
高台の団地下の交差点まで来た。
直進しても、右折しても自宅へと向かう。しかし、ムカッといよいよ
来て、左折する!!
また、病院へと向かった。

駐車場で父を車に残し、当直看護婦室へ行った。

「どういうことなんですか!」「今日やっと安心したのに、そのつかの間
・・・・・」当時私は民間のサラリーマン勤め、まだ、「守秘義務」
などという言葉を知らなかった。しかし、今日のこの日に向かって
仕事も休んだりして調整し、行動して来た事が全てぶち壊しになり
そうな気配に怒っていた!!それより何より母の安心を壊されそうな
状況に暴れそうなぐらい憤怒していた!!

黙って聴いていた看護婦(当時の呼称)、涙ながらに切り出した。
「自分も父親を2ヶ月前にがんで亡くした。患者さんの気持ちは
良く解る。明日院内で報告する・・・云々・・・」
私は、その涙に納得しその場を辞した。


母は梅ほころんだ2月に入院し、窓外に鯉のぼりが見えた頃。
医者が言ったとおりに、ちょうど3ヶ月目にこの病院から旅立ちました。

私は「守秘義務」を、歯を喰いしばった体感として、理解している
積りです。
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行政書士
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自己紹介:
ISO14001環境マネジメントシステム審査員補
日本自然保護協会・自然観察指導員
浄化槽管理士
日本森林学会会員
福祉住環境コーディネーター
茨城県介護サービス情報公表制度・調査員
茨城県動物愛護推進員
上記もろもろ、兼 おっさん。
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