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 この仕事に人生を賭けてます! 伊能忠敬の「人生二山」が好きな言葉。 実り豊かな第二幕目の人生の歩みing型。 黒田真一が人生の旅人として日々の雑感を綴ります。
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今日は午後から、茨城県動物指導センターの子犬譲渡会に行って
来ました。
天気予報は曇りのち雨の日でしたが、エライ大外れのピーカン天気!
暑いの何のって、汗が噴出す陽気でしたよ。

今月の譲渡犬は、全部で7頭。4頭の兄弟と3頭の兄弟。(オス・メス
混ざっておりますので、<兄弟>じゃーないんですが。)
で、応募者は14組だそうでしたが、おっと、実際見えたのは、
なんと4組だけ。

急に暑いからって、シャンプーしたりしてバリバリ<キャわいく>
なった子犬だというのに、ドタキャン・・・・はヒドいじゃあ
ないですか。
しかも、そのドタキャン組のうち半分位は「連絡なし!」と
いうんですからね・・・・・。
ひどいもんでス。

通常だと、貰えるかどうか2倍ぐらいの倍率らしいですが、
今日はお見えになった4組が全員貰えて、メデタシメデタシ。

2ヶ月後には、「しつけ方教室」へ犬ともどもの出席が義務
づけられています。
①ホールドスチール②タッチングが飼い主・犬ペアへの
宿題となりました。

1時位から3時過ぎまで、7頭はしゃいでおりましたが、
貰われていった兄弟たちと残った犬達。明暗が分かれ、4頭の方は
2頭が残り、3頭の兄弟は1頭だけ残りました。

はしゃぎ疲れだったのか、それとも兄弟生き別れの悲しさからか、
残った犬達のションボリぶりが心残りとなりました。
特に3頭兄弟の1頭だけ残った方が特に・・・・・・。

ま、貰われた犬達だって、それぞれ1頭ずつ別々のおうちの
いったわけなのですけれど・・・・・。
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先ほど紹介記事を書いた『私、バリバリの認知症です』の中で、
長崎在住の詩人・児童文学作家の藤川幸之助がプロローグとエピローグ
を書いている。

著書に『マザー』(ポプラ社)他があるほか、介護体験の著書をもとに
制作されたラジオ番組「マザー・詩人藤川幸之助が綴った母との瞬間」が
平成16年度民間放送連盟賞最優秀賞受賞、文化庁芸術祭参加作品となる。
1962年熊本県生まれ。長崎大学教育学部修士課程修了。
(以上経歴は前掲書・著者プロフィールから。)


私は大分前、この藤川の『マザー』(ポプラ社)を読み、今さてどこか?
と我が書棚を漁ったが、何処かの影と見えて・・・、出てこない。
2003年3月8日にプリントアウトした、藤川のメルマガからの同氏の
詩を一編転載しておこう。

藤川は当時、隔週刊「痴呆の母と生きる」プレミアム★介護の詩(うた)
『マザー2』★というメルマガを出していた。
昨日書いた我が母を思うとき、この藤川の母を思う詩がなぜかシックリ
来て、よく読んでいて、ポプラ社からの本を知った時、本も買ったのであった。
(うちの母はボケなかったが、父はボケて、詩の内容に共感する
ものがあったのかもしれない・・・・。)



           「ライスカレー」
                    藤川幸之助
今度帰るときには
ライスカレーを作っておくからと
嬉しそうに母は約束した

久しぶりに実家に帰ってみると
約束通りライスカレーが
テーブルの上に
ハンバーグと一緒においてあった
食べると母の味つけではなく
レトルトのカレーとハンバーグを
皿に盛りつけただけのものだと
すぐに分かった
父は
「母さんのカレーはうまか」と
何度も何度も母の方を向いて言っている
「これ母さんレトルトだろう?」
と不機嫌に言った
「二つとも時間をかけて作ったんよ」
と母は言い張った
私も意地になって言い返した
とたん父が
「そんなに母さんの作ったもんが嫌なら
食べんでよか」
と珍しく怒鳴った
「でも、これは・・・・」と
まだ私は言い返そうとした
父が私の目を見た
母が風呂に入って
父と二人っきりになった
料理を忘れてしまって
料理を作ろうとしない母の話を聞いた
母が私とのライスカレーの約束の話を
父に何度も何度も話すのだそうだ
そして
父が母の代わりに
私のためにレトルトのカレーを
作ってくれていた

「母さんを来週
病院に連れて行ってみるつもりだ」
と父が小声で
独り言のように言った


藤川が小学生時代の元気だった母とボケた母の対比を書いた
「エプロン」、ストアで目を離した隙に、店のシュークリームに
かぶりついた、おしめでブクブクのボケた母を書いた「シュークリーム」
認知症がまだ<まだらボケ>状態の時、母が1階に居なくなる、
何処へ?・・・・と思ったら、2階で、メモ紙いっぱいに書いた
エンピツ文字の我が息子達の名前を、必死にそらんじていた話・・・
忘れまい、忘れまい、わが子の名前忘れまい・・・・と、そこには
苦悩の母の姿があった・・・と藤川は書いた。


よって、私は『私、バリバリの認知症です』の著者を見たとき、
患者、医者、作業療法士、+藤川幸之助と今現在の鉄壁の布陣なの
かな・・・・と思ったことだった。

カウンタが付きましたら、どなたか訪問頂いていることが分かり
とてもうれしく思っております。

さて、2日ばかり「高齢者福祉分野」のことも・・・・、と
理屈っぽいのとか、長ったらしいのを書きましたので、
ビックリされて来なくなってしまうのも困りますので、今日は息抜き
としましょ。


まず、ここ数日に読んだ本のご紹介から・・・・。
●『私、バリバリの認知症です』かもがわ出版 1600円(税別)
●『天使になった犬達』篠原淳美 オークラ出版1429円(税別)


『私、バリバリのーーー』は、1949年生まれ、日本福祉大学を
卒業され、長崎県職員として長年福祉行政に携わって来た太田正博さん
という方が、若年性認知症になってしまった。
痴呆老人問題に熱心な主治医菅崎弘之先生、同医院の作業療法士上村真紀さんに巡り会い、その治療と指導を受ける傍ら、昨年には太田さんは長崎県を退職。現在は3氏で認知症関連の講演活動をされている記録です。

若年性認知症の発見経過、日々の症状、不治の病であり進行性である
病を太田さんはどう受け止め、将来をどう見据えているのか。主治医の
菅崎先生の治療と心のケア。患者の傍らに暖かく寄り添い、的確な指導と見守りで太田さんの自立支援を援助する上村さん。
稀有の理解者を得て太田さんの明るさが一筋の救いだ。

年代的には一緒の当方など、他人事とは思えず読みました。


『天使になったーーー』は、茨城県茨城町在住の方で犬の飼い主の
意識を高めるしつけ方教室を主宰する傍ら、迷い犬の一時預かり
や里親探し等の保護活動を11年にわたり続けているという篠原
淳美さんの著書。
今も愛犬・保護犬23匹と暮らし、犬関係の著書多数。この本が
最新刊15冊目の著書だという。

前にご紹介した『どうぶつたちへのレクイエム』と同種本であるが、
単に情緒・感情に訴えるのに留まらず処理センター(この本では、
茨城県動物指導センター)内部の解説、処理事情、飼い主事情(犬達
への罪)など周辺事情が深く理解出来た。

茨城県動物指導センターの場合、人里離れた場所に位置するのですが、
皮肉なことに、隣は県獣医師会の民間霊園。こちらは家族として愛され、
死後も鄭重に弔らわれる幸せな犬・猫たちのスペース。

そして、指導センターに収容された犬・猫たちは、窒息死させられ、
900℃もの熱で骨が灰になるまで焼かれ、遺骨はゴミとして
産廃業者に引き取られている。(同書帯コピーから)

先日指導センター職員からも聞かされたが、フェンス一つ隔てた
だけでの、過酷で残酷な運命の違いにはただただ黙祷するほかはない。

著者篠原淳美さんの熱い心と深い愛情、それ以上にその情熱溢れる
行動力には脱帽するばかり。今日には、アマゾンで取寄せた
『心を病んだ犬たち』『愛することを伝える犬たち』(どちらも
KKベスセラーズ刊)も読み始めたが、犬種別性格、感染症、しつけ
など深い知識に驚くと同時に、瑞々しく安定した文章力にも説得力
抜群。動物好きにだけでなく、今を生きる万人に薦めたい本だ。


私は、母を71歳で亡くした。

当時私はバリバリの管理職。教員の弟も学年主任をしていたのだったか、
いずれにしても「働き盛り」の真っ只中であった。

その頃、母が胃がんになった。
ふたり住まいになっていた両親は、二人で病院へ行き、入院支度も
二人で、というより父が付き添い、母が指示して準備したのだと
思う。

二人は「働き盛り」の息子達に遠慮というよりも、息子達を慮って、
敢えて連絡もせず、入院した。
今思えばそれぐらい、母は元気だったし、父も一家の主らしい振る舞い
が出来ていた、のだろう。

だが、(私と同年齢ほどの)母の主治医は<それが許せなかった>ら
しい。耳が遠い夫だけが付き添い、妻ががん患者。なんとも不憫な
老夫婦と、人非人の子供ら、と映ったのだろう。
『ボクから言いましょうか?』『いいえ、いいんです。どうぞ、そんな
ことはしないで下さい・・・・。』

主治医は、<患者>以上の思いで母を思ってくれた。

しかしその時点では、子供たちとしては知らされていなかったのだから
仕方がない。豆に連絡を取るべき・・・と言われるかも知れぬが、
露ほども親の弱りを考えない時期には、それより自分の眼の前の
課題を解決する日常の方が、どうしても大きいものだ。
父も自分たちで身の回りのことは解決出切る・・・・と考えていたのだ
と思う。そういう父であった。


手術の日、子供たちは病院にいた。
主治医のところにゆくと、切除した母の胃を見せられた。
先の事情からか、コチラを見た医師の視線に一種刺すような光が
あったような気がした。
東北大を出たというその若い医師は、色白のいかにも賢そうな
顔であったが、さらに「医は仁術」のハートさえ備えていた。

手術は成功です、の言葉に、兄弟は心から深謝し深々と頭を下げた。


しかし、程無く母は<みぞおち>あたりに違和感を訴え、再入院と
なった。
がんの転移が見られるという。余命3ヶ月。

「あれほど、全部患部は切除したので問題はない。」と言ってくれたのに。医師は最後まで面倒を見させて欲しい・・・といったが、もう、
到底その気にはなれなかった。
なにせ、時間がない・・・・・・・!

仕事を抱えて、日立まで80キロを毎日通うのはムリ。もう治らない
とすれば、勝手かもしれないが、友部の病院に転院させて、毎日通って
あげるのが最後の親孝行・・・・。

それから友部の病院で、母の受け入れのお願いをし、日立の病院に転院の
お願いをし、転院の日取りを決め、主治医が最後まで面倒を見る・・・の
言葉を振り切るように転院した。


車の後部座席に枕をしつらえ、高速道を走った。
日立の大煙突が見える脇を通った時には、「ほら、大煙突が見えるよ!」
と運転しながら母に見せた。
もう、今日以外絶対に母は見ることもない・・・と確信しつつ。
娘時代を過ごし、勤め、結婚し、子供を産んで、と、ことあるごとに
見ていたはずの見納めの「大煙突」を見せた。日立の象徴だった。


15時の入院を前に、我が家に寄った。
たしかもう、たいして食べられなかったのだと思うが、軽く遅い
昼食を済ませ一服。
「じゃあ、行く?」母を促し、席を立った。
母は治す意欲に満ち、新しい環境への軽い緊張もあってかハイな
気分であった。
庭に梅が咲きだしていた。「おや、梅だ。咲いてる。」母は指差し
元気いっぱいに車に乗った。


新しい病院では、個室を宛がわれ家族水入らず何の遠慮なく話が出来た。
前の病院では4人部屋。生来勝気の母は、そのうちの誰かと気まずく
なり、その意味でも今日からの病院は天国のような環境だったに違いない。
「良かったよォ・・・」母が心の底から言った言葉だった。

小さい病院なのに、末期がん患者の受け入れ。
医師の厚意とは別に、看護婦(当時)の負担が思われたが。

当然に前の病院からの紹介状、画像資料その他持参の入院だったが
病院に入った直後、またレントゲン撮影があったり、それなりの検査
があったりした。
17時ごろだったか、夕食があり、それでその日の日課は全部無事
終わった。今度は私らの夕食支度のため、妻を先に帰宅させた。

病院は閑散として、一安心も二安心もした家族。
何の遠慮もない個室、ラジカセでも持ってくる話をして、「何が聴き
たい?」と聞いたら、美空ひばりという。同じ戦後を同じように歩いて
来た歴史を思った。
(結局その後、悪くなるばかりになった母は、一度も美空ひばりを
 聴く気にならなかったが・・・・)

話は逸れたが、もう夜も20時近くになっていたろうか。
私と父は「また、明日」と病室を出た。長い一日がやっと終わろう
としていた。
ふうっ、やっと安心。軽い気持ちで休憩室に寄った。

そこには先客があった。60代位の婦人とその連れらしい20代の男の
お孫さんらしかった。それと、この病院のかなり年配のX線技師。
ご近所同士ででもあるのか、だいぶしみじみ口調で話し込んでいた。
この技師、帰る間際の雑談らしかった。

やがて話題が変わった。
「今日入ったおばあさん、もう顔も真っ黄色。目の白目も黄色いんだ
もの。もう、ああなったら人間終わりだね!・・・・・・・」

別に聴いていたわけではなかったが、後は誰もいないこの時間の
休憩室。誰のことを言われたかは即座に解った。私はその男の顔を
まじまじと見た。
相手は全然、こちらがその息子と夫だなんて夢ひとつも考えていない
様子。私はあきれ返ってスックと立ち、父に「帰るよ・・・」と
促した。父の幸せは、耳が遠くキョトンとしていたこと。


外は真っ暗で、いつの間にか雨が降っていた。
黙って父を乗せ家路についた。水滴で前が見にくい。ワイパーが
動くリズムで、考える。<ああなったら人間終わりだね・・・>
<ああなったら人間終わりだね・・・><ああなったら・・・・>

込み上げて来る悔しさ、込み上げて来る怒り・・・・。
父子は車中黙ったまま走る・・・。
父はまだキョトンと、息子のダンマリの意味など理解していない。
高台の団地下の交差点まで来た。
直進しても、右折しても自宅へと向かう。しかし、ムカッといよいよ
来て、左折する!!
また、病院へと向かった。

駐車場で父を車に残し、当直看護婦室へ行った。

「どういうことなんですか!」「今日やっと安心したのに、そのつかの間
・・・・・」当時私は民間のサラリーマン勤め、まだ、「守秘義務」
などという言葉を知らなかった。しかし、今日のこの日に向かって
仕事も休んだりして調整し、行動して来た事が全てぶち壊しになり
そうな気配に怒っていた!!それより何より母の安心を壊されそうな
状況に暴れそうなぐらい憤怒していた!!

黙って聴いていた看護婦(当時の呼称)、涙ながらに切り出した。
「自分も父親を2ヶ月前にがんで亡くした。患者さんの気持ちは
良く解る。明日院内で報告する・・・云々・・・」
私は、その涙に納得しその場を辞した。


母は梅ほころんだ2月に入院し、窓外に鯉のぼりが見えた頃。
医者が言ったとおりに、ちょうど3ヶ月目にこの病院から旅立ちました。

私は「守秘義務」を、歯を喰いしばった体感として、理解している
積りです。


<環境と高齢者福祉をみつめる>などと標榜して置きながら、
一向に高齢者福祉について書いて来なかった。


ま、どの道制約のどこにも触れるようなところもなく、
我が両親の人生終末期と医療福祉、介護保険制度との係りのみが、
強いて言えば当方の高齢者福祉への関心の原点であったとはいえる
のだが。


きょう日どこの家庭でも核家族化が進み、三世代同居ないしは大家族
の家庭などは少ない。よって、自分の若い時分に、同居の年寄りを見
取るというような体験がないまま育つものだから、身内の生死といっ
たら大概が自分の親になって初めて出くわすことになる。

ご他聞に漏れず、自分の場合もそうであった。
親の病気、老後に遭遇して、初めて身内の生き死に出会うことにな
ってしまった。
つまろところ、我が親が身を挺して、私に医療問題、高齢者介護の
現実を目の当たりに示し、解決を迫り、大局からの展望の視点さえ
も教えてくれたと思うのである。

当ブログは、当方の関心の向くまま、環境・自然分野、動物法務がらみ
でのペット・動物関係の事どもなどを記して来た。加えて、上記に
縷々書いて来たように本来は高齢者福祉もまた、当方の関心を寄せる
分野、あるいはオーバーに言えば父母から与えられたバトンとも思う
ところもあるため、今後はこの分野についても、純粋、制度の一享受
者としての視点からしか書けないが、書いて行きたいと思う。


えらく理屈っぽい書き出しであったが、今後の鑑としてご理解いただき
今日のところはお許しを願いたい、と思う。


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性別:
男性
職業:
行政書士
趣味:
山歩き、自然散策、ドライブ
自己紹介:
ISO14001環境マネジメントシステム審査員補
日本自然保護協会・自然観察指導員
浄化槽管理士
日本森林学会会員
福祉住環境コーディネーター
茨城県介護サービス情報公表制度・調査員
茨城県動物愛護推進員
上記もろもろ、兼 おっさん。
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