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 この仕事に人生を賭けてます! 伊能忠敬の「人生二山」が好きな言葉。 実り豊かな第二幕目の人生の歩みing型。 黒田真一が人生の旅人として日々の雑感を綴ります。
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昨日来の雨が上がった午後、まだ冬枯れの庭の芝を見れば、桜の
花びらが、ところどころに落ちていた。
数えれば、4、5片もある。

近所の住宅に、桜があるところなどはなくて、直線で100mほど
の南側に桜公園、西側にも小さな児童公園があり、そこには桜が
植えられている。

それほど風があったわけでもないのだが、きっとそこから飛んで来
たとしか思えない。

いよいよ今年の桜も終わりだな、そう実感した。
しかし、花の中でもパッと咲いて、パッと散るように思われている
桜だが、なかなかどうして、一週間以上も咲いていた。



●皇室:両陛下、慰霊の供花 ペリリュー島、持参の白菊
(毎日新聞 2015年04月09日 東京夕刊)

昨日の新聞朝刊の第一面にも『ペリリュー島』の活字が大きく踊って
いたが、天皇陛下の慰霊の旅としてお選びになられた太平洋戦争の
激戦地の島で、10年越しのその慰霊を実現された。

皆様は、『ペリリュー島』という名をご存知だったろうか?

名をし追う激戦の地で、南北約10キロ、東西約3キロの小島に過ぎ
なかったから、米軍も当初<せいぜい2日か3日で陥落>と考えていた
のだが、日本軍の強靭な抵抗により玉砕で陥落するまでに、実に2か月半
を要した。
水戸第二連隊を中核とする日本軍の損害・戦死10,695名。米軍側
戦死1,794名、負傷8,010名。(米軍側には、この他精神に異常
をきたした者が数千名あったという。)

1944年9月15日の米軍上陸から本格的戦闘状態となったペリリュー
の戦いは、10月30日には米軍上陸主体のアメリカ第1海兵師団自体が
損失率60パーセントの全滅判定を受けるに及んで、師団長のリュパータス
少将は師団長を解任され、アンガウル島占領を果たしたアメリカ陸軍第81
歩兵師団と交代したという。(以上はWikipedia「ペリリューの
戦い」による。)


今回のテレビ・新聞での報道に、茨城県内のペルリュー島縁の方々はあまり
出ていなかったが、県内には遺族の方々はじめそのゆかりの方々は少なくは
ないと思う。

当方の係累でも、水戸第2連隊所属によりペリリュー島へ出征し帰らぬ人と
なった方があった。

ウチの父親が晩酌の時、酩酊の中で時折この親類との別れの場面を再現して、
子供心に身につまされた記憶があるのだ。

『マサやん、じゃあ、オレ行くからナ・・・・。』

マサやんとは、我が父親の名前で、春政といった。

米軍の艦砲射撃や艦載機による爆撃?洞窟に隠れているところを火炎放射器に
焼かれたか?はたまた、米軍ブルドーザーによる洞窟生き埋めにより命を落とし
たのか?
いずれにしても、2か月半に渉る地獄のような戦場の戦死者10、695名の
ひとりとなった。

最期の最期まで、万歳突撃などの玉砕を許されず、最後の一人までゲリラ戦法
による『戦い』を強いた地獄のような戦争であった。


もはや四角い旗のフチだけになった水戸第二連隊旗を処理し、機密文書も完全
に処理した後、守備隊長・中川州男陸軍大佐(水戸・陸軍第二連隊長)は昭和
19年11月24日午後4時いよいよペリリュー島玉砕の電文を打電した後に
自決しました。

そのペリリュー島からの玉砕を意味した電文が「サクラ、サクラ」でした。
(事前の11月22日に、その意味するところを予告した電文を打っていた後で。)


●ペリリューの戦い(ウィキペディア)
(プリントすると18ページにもなるが、プリントしてじっくり読まれることを
お薦めします。)
関連書籍紹介欄もあるが、大概が古書となり流通するものが少ないために値段的
にも高い。例えば著名な児島襄著『天皇の島』(角川文庫)がアマゾンで17240
円の値がついている。そのほか戦記物が5千円ほどもするので、上記のネット記事
は、ペリリュー島の概観を掴む上では大変便利だ。

●ペリリュー島の戦い(WEBページから)

●公立大学法人 都留文科大学 ペリリュー島
(この大学には、戦争を通して平和を考える講座があり、長らく地道な活動を
している。当方の娘もこの講座を修めたようだ。記事は現地ルポ程度で深い考察
があるわけではない。)

●歩兵第2連隊(ウィキペディア)
日本軍の中でも精強と定評のあった郷土部隊。その歴史が読める。
シベリア抑留体験からの『異国の丘』で世に出た、作曲家吉田正は水戸第2連隊が
満州駐屯中に病気になって、パラオ・ペリリュー島への転戦について行けなかった
人である。

水戸市渡里に連隊本拠のあった歩兵第2連隊の後、戦後新制大学設置の際に、その
敷地は茨城大学になったとも聞いた。

水戸市堀原の歩兵第2連隊の練兵場跡に「水戸歩兵部隊の跡」の碑があるという。
水戸市内に行ったおりに訪ねたいと思う。




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ペリリュー島関連で、手元に持っていた本は以下の2冊だったが、今回の天皇陛下
ご訪問で、上記ネット記事を調べてみると、なかなか興味深い本だったことを再認識。

■『ペリリュー島玉砕戦』船坂弘著 光人社NF文庫
■『パラオの恋 芸者久松の玉砕』新井恵美子著 北辰堂出版

船坂弘氏は、皆目判らなかった人で、今回調べてみてビックリだった。
今回の慰霊碑訪問で、対岸に向かって両陛下が深々とお辞儀をしていた島がアンガウル
島。ここにも守備隊1200名がいたが、全滅。

この戦いで満身創痍の分隊長の軍曹だったのが船坂弘氏だったのだ。

映画・ランボーを地で行くような獅子奮迅の大活躍のあと、米軍に射殺されたハズが
米軍の救護により息を吹き返し、入院中に、ベットを抜け出して米軍火薬庫を爆発さ
せて、昼間は何食わぬ顔をしてベットに横になっていたというスーパーマン。

防衛省戦史資料室に関連のある「戦史叢書」に唯一、将軍でもない一介の下士官なが
ら、個人名が記されている兵隊だったという。

もうリンクする手間も大変なので、ヤメるが、ウィキペディァで『船坂弘』を引くと
出て来る。戦後、作家三島由紀夫などとも交友があったそうで、物凄い生涯。故人。
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